AI時代の「フェイク」:佐村河内事件を新たな視点で考えてみた!

音楽コラム

みんな、最近はAIが音楽や文章を作る時代になってきたんだよ。ChatGPTが書いた本が本屋さんに並ぶなんて、まるで昔のファンタジーみたいだね。でも、ここでちょっと考えてみよう。人間だけが作れる、特別なものって一体何だろうね? 今日はそのヒントになる「フェイク」について、深く掘り下げてみるよ。それじゃあ、行ってみよう!

「フェイク」が社会問題になった「ゴーストライター事件」

10年前のあのビックリするニュース、忘れてない? 佐村河内守さんって人がすごく話題になったんだ。クラシック音楽の世界でドッカンと衝撃を与えた出来事だったんだよ。この事件って、世間では「全盲の作曲家」として話題になっていた佐村河内さんが、「ヒロシマ」という大きな交響曲を作ったってことで、新聞にデカデカと載るくらい有名になっちゃったんだ。「クラシックの曲」がこんなに人気を集めて、みんなの注目を浴びるなんて、本当に珍しいことだったんだよ。この交響曲、興味がある人はじっくり聴いてみるといいよ。

でもね、実は新垣隆さんっていう現代の作曲家が実は曲を作ってたってことがバレちゃって、大騒動になったんだ。その時、フィギュアスケーターの高橋大輔さんもこのこの佐村河内・新垣の「ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ」を使ってオリンピックで滑ってたから、ますます注目の的になったんだよ。

当時はね、「みんながマスコミがでっちあげたフェイクの物語に夢中で、ホンモノの音楽を聴いてないんじゃないか」と、クラシック音楽の評論家たちが指摘して話が終わったんだよ。

でもさ、もしも、新垣さんがその実力はあっても「世間でバズるクラシック音楽」を書くためには佐村河内さんが少なくても「火付け役」としては必要だったのだとしたら? そして、佐村河内さんがもしももう少し先の未来に現れて、新垣さんではなくてAIに「バズるクラシック音楽」を書かせたら? なんだか恐ろしくなるような話だね。

もし、佐村河内さんがAIを駆使して「ヒロシマ」を「作曲」したなら、おそらく少しも問題ではなかったはずだよね。そして、こんなことをもう、今日では誰もが当然のようにやろうとしているよね。それなら、この事件はそもそも何が問題だったんだろうか。

なんでクラシック音楽界では「ゴースト」はタブーなの?

この事件、ずっと謎に思ってたんだ。ポップス界ではゴーストライターが当たり前にいるのに、なんでクラシック音楽ではタブーなのかな?  

実はね、「ポップスとクラシック音楽におけるゴーストライターの違い」についての問いは、音楽業界の文化と価値観の違いに根ざしているんだ。

まず、ポップス界ではゴーストライターが一般的とされるのは、このジャンルがより商業主義と大衆性に重きを置いているからだよ。ポップス業界では作曲家、作詞家、アレンジャーなどが裏方として活動し、歌手やパフォーマーが表舞台に立つのが一般的だね。ここでの主要な目的は、広く受け入れられるヒット曲を生み出すことにある。そのため、実際に曲を作った人が誰であるかは、あまり重視されないことが多いんだ。

一方で、クラシック音楽界では、作曲家自身の創造性、芸術性、個性が非常に高く評価される。クラシック音楽では、作品が作曲家の個人的な表現と見なされ、その作曲家の技術、感情、思想が反映されるとされるんだ。作曲家の名前はその作品のアイデンティティの一部であり、彼らのオリジナリティが作品の価値を大きく左右する。そのため、ゴーストライターを使うことは、このジャンルにおける創造性とオリジナリティへの背信と見なされることがあるんだ。

「ゴースト作品」は単なる「フェイク」? その芸術的価値は?

さて、ここで「ゴースト作品は本当にフェイクなのか、オリジナリティや芸術的価値はないのか」という点を改めて考えてみたい。「ゴースト作品」に対して批判的だった専門家は、総じて「この曲がポップスとクラシックの名曲のゴタマゼ」に過ぎず芸術的価値はない、という趣旨だったと思う。

この曲がポップスのような素材をクラシック音楽の名曲のエッセンスを織り交ぜながら構想されている点は、その通りだとしておこう。

でもね、「ポップスから寄せ集めたような素材でクラシック音楽らしく創ったような曲には価値がない」と果たして言い切れるかどうか、だよね。事実、佐村河内さんと新垣さんによる「ゴースト作品」には、多くの人を惹き付ける独特のパワーがあったことは間違いない。これは「フェイクに踊らされた大衆の無知」と大所高所から批判して、それで済むようなことだったんだろうか?

確かにモチーフはポピュラー音楽みたいでどこかで聴いたことがあるようなものだったかもしれないけど、その展開はなかなか複雑、壮大で芸術的な意味でもクオリティに問題があると断言できるような代物ではなかったと思うんだ。

事件でお蔵入りになってしまったピアノソナタもソン・ヨルムさんの壮絶な演奏が本当にすごかった。今はなかなか聴くことができないけど、中古品で見つかるかもしれないから興味がある人は是非探してみてほしい。国際コンクールで入賞するような超一流ピアニストの「本気」だったと言わざるを得ない出来栄えなんだ。実際、17分もかけてクライマックスを創り出すような展開を持つ「ピアノソナタ」はあの曲くらいだと思うんだ。ヨルムさんが本気で演奏しているのも間違いはないんだよ。それが本当に「単なるフェイクで芸術的価値は全くない」と断言できるんだろうか?

ゴースト作品の芸術的価値については、この曲を演奏した演奏家や識者にも一流のプロが多くいたことも証拠になってると思うんだ。そんなに簡単に「この曲はフェイク」と言い切れるものじゃないはずなんだよ。

なぜ、新垣さんは「天才」なのに「ゴースト」なんてしてた?

でもね、なぜ新垣氏はゴーストライターとして隠れていたんだろうね。実力があるんだから、正々堂々と実力で世に問えばよくない? 新垣隆さんがなぜゴーストライターとして活動していたのか、それにはクラシック音楽界の深い根底にある問題が関わっているんだ。

まず、「大衆を喜ばせるのは芸術とは言えない」という「現代クラシック作曲界」の世間では考えられないような「暗黙の不文律」がある。これ、業界関係者にはないとは言わせないよ。これは特に現代音楽の世界で顕著で、音楽そのものの可能性を追求し、大衆性よりも芸術性を重視する傾向が強いんだ。

第二次世界大戦後の敗戦国、つまりドイツ、イタリア、日本では、国威発揚のためにクラシック音楽を国家的にバックアップする体制があった。しかし、戦後、この体制の崩壊とともに現れたのが、大衆を熱狂させるのではなく、音楽の芸術的な可能性を追求する「現代音楽」だったんだ。こういう「ゲンダイオンガク」のカルチャーは高等教育を受けたいわゆる「インテリ」にも訴えるところが大だったんだよ。

「現代音楽」ってみんな馴染みがないと思うけど、以下の作品が新垣さんが実名で発表していた「ゲンダイオンガク」だよ。「ヒロシマ」と同じ人が作ったとは思えないよね。僕はこの曲面白いと思ったけど、一般の人にはこの曲で新垣さんがすごい人なのかどうかはわからなくても仕方ないと思うんだ。

この流れの中で、新垣さんのように才能がありながら「プータロー」として生きる音楽家が現れた。彼らは最高の教育を受け、素晴らしい音楽的才能を持ちながらも、社会的な評価や経済的な報酬が伴わない状況に置かれていた。このような状況は、クラシック音楽の世界だけでなく、他の芸術ジャンルや学問分野でも見られる現象だ。

新垣さんがゴーストライターとして活動した背景には、こうした現代音楽界の複雑な社会的構造がある。彼のような音楽家は、自らの作品を通じて表現することが困難で、認識される機会が限られていた。だからこそ、彼はゴーストライターとして活動することで、自分の音楽を世に出す方法を見つけたのかもしれない。

この状況は、日本のクラシック音楽界、特に現代音楽が直面している大きな問題を示している。芸術の価値を伝え、社会に根ざすことの難しさ、そして才能ある音楽家がその才能を活かすための環境が十分に提供されていないという現実があるんだ。新垣さんのケースは、現代音楽界の矛盾と葛藤、そして音楽家が直面する困難を象徴していると言えるね。

まっぷだつに割れた「クラシック業界」の反応

こういう背景もあって、佐村河内守氏の事件に対するクラシック音楽界の反応は見事にまっぷだつに割れたんだ。

まず、野口剛夫さんや細川俊夫さん、大野和志さんといった大物の批評家、作曲家や指揮者たちの反応は、クラシック音楽の本質的な価値に焦点を当てたものだった。彼らは「全盲の作曲家」といった佐村河内氏の自己演出に乗せられてしまうような「物語に流されて音楽の価値に耳を向けない風潮」を強く批判し、音楽そのものの芸術性や創造性を重視する立場をとっている。これは、音楽を純粋な芸術作品として捉え、その深い理解や鑑賞を促す姿勢を示しているんだ。

一方で、吉松隆さんのような現代音楽に批判的な作曲家や「ピアニート侯爵」として知られる森下唯さんのような演奏家からは、現代音楽の価値観に対する異なる見解が示された。彼らは、高度な教育を受け、優れた能力を持つ作曲家の作品が世間に受け入れられない現実や、そうした作品の演奏が困難であることに対するフラストレーションを表明していたと思うんだ。

こうした反応には、何等か「ゴースト事件」事態をポジティブに捉えている面があるんだ。佐村河内も同じフラストレーションを持っていて、彼が新垣さんに書かせた「作品」はとてもロマンチックで商業音楽の影響を色濃く反映しつつも、ポップスの枠には収まらないクラシックならではの大規模な作品だったんだ。

演奏家には佐村河内さんが意図する意味での「クラシックの新作」を望む人も多かったけど、それも「暗黙のタブー」だったんだね。この事件は色々な意味で、クラシック音楽界のなかでも特に現代音楽が直面している問題を浮き彫りにしている事件だったんだ。

このような双方の言い分は、クラシック音楽界の中で異なる価値観や期待がどのように共存し、時に衝突しているかを示しているよね。一方では、音楽の純粋な芸術性とその深い理解が求められ、他方では、より広い聴衆に受け入れられる音楽や演奏家の社会的・経済的な実現可能性が重視されている。

佐村河内守氏の事件は、これらの複雑な問題を一挙に表面化させた。音楽界における「物語」と「音楽そのもの」の関係、芸術性と大衆性のバランス、そして音楽家としての生き方や価値観について、深く考えさせられる出来事だったんだ。

「フェイク」と「ホンモノ」の境界線は実はすごく曖昧

クラシック音楽界は確かに、バッハやベートーヴェンのような偉大な作曲家の権威とその遺産に大きく依存している。これらの作曲家たちの生涯や彼らの作品の背景は、音楽自体の理解に深みを加え、聴衆の体験を豊かにする。でもね、ここには大きな落とし穴があるんだ。

一部のクラシック音楽家や批評家は「一般大衆が物語に流されて、音楽そのものを聴いていない」と批判することがある。これは、音楽が持つ純粋な美しさや芸術的価値が、時として作曲家の人生や伝説によって隠れてしまうことを指しているんだ。たとえば、ベートーヴェンが耳が聞こえない中で作曲したという物語は、彼の音楽を聴く際の感動を増すかもしれない。確かに、その物語がなくても、彼の音楽は美しいし、深い感動を与える力を持っている、それだけの力が過去の偉大な作品にはあるんだね。

でもね、物語と音楽の関係は、実に複雑で相互に影響し合うものだよ。音楽は文化的背景や社会的な状況と密接に結びついていて、これらを無視して音楽を理解するのは実際には難しい。音楽は、ただの音の複雑な構築物ではなく、特定の時間と場所、特定の人々の経験や立場を反映しているからね。

それにね、物語に流されずに音楽を純粋に味わうことは、実際にはほとんど不可能だと思うんだ。音楽は常に何らかの文脈の中で聴かれる。その文脈は、作曲家の伝記、演奏家の解釈、聴衆自身の経験や感情などによって形作られるんだ。

これが音楽を面白くしているんだと思うよ。フェイクとホンモノの区別が曖昧なことは、音楽をより豊かで多層的なものにしている。つまりね、大切なのは「物語に左右されないで音楽そのものを聴く」ことではなくて、音楽を聴くことから自分がどんな物語のなかで生きているのか、それが自覚出来たり、その物語自体がより豊かなものになるってことだと思うんだよ。もしも、過去の音楽が本当に偉大なのだとしたら、それは物語を排した「音楽そのもの」だからじゃなくて、それは様々な人の様々な物語に応えうる奥深さを持っているから、と考えるべきなんじゃないかな。

そもそも、「音楽そのものを聴け」っていうのは、あたかも自分だけは物語には左右されてない立場であるかのような言い方だけど、これまで見てきたように、立場が違うだけでそれぞれの「物語」は厳然としてあるんだよね。

音楽はそういうそれぞれの人が生きている物語と全く切り離されて、抽象的に成立するものじゃないんだ。だから、そういうことを他人に対して要求する人は実際には「俺の物語が正しい物語だから、尊敬しろ、従え」と言っているに等しいことに気づく必要があるよね。こういうクラシック文化の「自分たちこそ真実に音楽そのものと向き合っている」というよくわからない独善的な価値観が、クラシック音楽の敷居を不必要に高くしてきたようにも思えてならないんだ。

自分だけが物語に左右されずに真実を知っているという考えは、少し狭い視野だよね。それぞれの音楽は固有の価値があって、しかもそれぞれの人にとって異なる意味を持つ。その二重の多様性こそが、音楽の本当の魅力なんだ。

AI時代のクラシック音楽:新しい価値観の模索

考えれば考えるほど、「フェイクとホンモノ」の境界線が曖昧になってきたよね。

そう、AIの登場とその進化が、音楽界にとっても革命的な変化をもたらしていることも無視できない現実なんだ。クラシック音楽界においても、「フェイク」と「ホンモノ」の境界線がさらに曖昧になり、オリジナリティという概念が再評価される時代になってきたんだよ。

AIと作曲家のコラボというのは、もうすでにクラシックの現代音楽でも現実になってきていることも事実だよね。もはや「オリジナリティ」はAIをどう使いこなすのか、という点が眼目になってきていて、その現代から見ると、「個人が独力ですべてを成し遂げているのかどうか」というクラシックのアイデンティティは事実上、崩壊してしまっていると言っていいんだ。

そして、物語とは独立に「作品そのもの」と向き合っているという芸術の理念も崩壊している。なぜなら、物語と作品の間に存在していると思われていた境界線こそ、芸術の価値観から都合よく生み出された物語であり、「フェイク」だったからなんだ。

だから、佐村河内事件も、「フェイクかホンモノか」「物語か作品そのものか」という価値基準だけで捉えるのは間違っていて、社会現象の中で何らかの作品が生まれ、熱狂的に支持されたという現実自体を理解する必要があるんだ。否定するのではなく、ね。先の尺度は、この件の場合現実を隠蔽することにしか役立っていなかったことは注目すべきだと僕は思う。

かつて、クラシック音楽では作曲家のオリジナリティが非常に重要視されてきた。作品の個性や創造性が、その価値の大きな部分を占めていたんだ。しかし、AIが作曲を始めると、この伝統的な見解に大きな挑戦が生じた。AIは膨大なデータと複雑なアルゴリズムを用いて、人間に近いレベルの作品を創出することが可能になってきた。これにより、作曲という行為が、人間だけの特権ではなくなりつつあるんだよ。

こうした状況下で、「オリジナリティとは何か?」という問いは新たな次元を迎えている。AIの創造した音楽は、過去の作品やスタイルを模倣して新しい作品を生み出すことができる。しかし、AIには人間のような感情や経験、直感がない。そのため、AIによって生み出される音楽は、技術的には高度であっても、人間の創作物とは異なる種類のオリジナリティを持つことになるんだ。

このように、AIの出現は、作曲家や音楽家にとって、新たなチャレンジとなっている。作曲家は、AIとの共同作業で何を生み出すことができるか、どのようにAIを音楽創作の一部として活用するかに関心を持つようになった。AIと人間の共同作業から生まれる音楽は、人間だけの創作物とは異なる新しい種類の芸術性を持つ可能性があるんだ。

この変化は、音楽の価値観や創作過程において大きなシフトをもたらしている。オリジナリティの伝統的な概念が変化し、AIが創作プロセスの一部として受け入れられるようになってきている。これはクラシック音楽界にとって大きな転換点であり、作曲家や音楽家、聴衆すべてにとって新しい音楽体験をもたらすことになるだろうね。これからの時代は、AIと人間の創造性がどのように融合し、新しい音楽の形を生み出すのか、非常に興味深いことだと思うよ。

まとめ:フェイクとホンモノの狭間で

結局、佐村河内事件って、フェイクとホンモノの狭間にある、現代社会の縮図みたいなものなのかもしれないね。AIが創造的な作業を引き受ける今、真のオリジナリティとは何か、もっと深く考えるきっかけになるんじゃないかな。

AI時代に改めて「フェイク」を考えてみた時、すべての境界線が曖昧になり、あらゆるものが一つになってまたそこから何かが生まれてくる、そんな時代がすぐそこに来ているような気がしてならない。

「ホンモノ」を求める心は誰のうちにもある。でも、自分たちだけが「ホンモノ」を求めていて、世間が意に介さない、という理解は現実を正しく捉えていないんだ。「ホンモノ」というのは現実を受け入れて、そこの中で試行錯誤して求めていくものであって、伝家の宝刀みたいに特定の立場の人が振りかざせるものではもうないんだ。

「フェイクとホンモノ」の境界線がなくなり、そこから改めて「ホンモノ」を求めていく。

もうその時代はすでに来ているのかもしれない。みんなはどう思う?

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